和泉五社と神輿の渡御 ; その3


その2で、神道と仏教の関係みたいなことを書きましたが、神社を巡るだけでそんな深遠なテーマに迫れるはずもありません。
訪問した各神社の画像を一枚ずつアップします。
これは、まあ、いつもの物見遊山的なツーリングです。

でも、派生して思い付いたことはいくつかありました。
が、それもできるだけあっさりと書くことにします(目標とします)。



<大鳥大社> 和泉国一之宮
一之宮というだけあって、この神社の境内は他の神社と比べて圧倒的に広いです。
街中にありますが、この広さをよく維持できたものだと思います。
祭神は日本武尊とこの地の神様である大鳥連祖神。
旧和泉国大鳥郡。

2018年10月29日、13時38分00秒a




<泉穴師神社> 和泉国二之宮
神社の周りは宅地化が進んでいて、家が神社の敷地に迫っている感じです。
住宅を挟んで、だいぶん先にもとの鳥居がありました。
旧和泉国和泉郡。

2018年11月01日、14時48分43秒a




<聖神社> 和泉国三之宮
この神社だけが平地にあるほかの神社と違って、丘陵地のはじまる小高い部分にあります。
ここには小さなキツネの石像がありました。
キツネの伝説で有名な信太森神社はもっと海岸線側にあり、その創建が708年とたいへん古いので、聖神社、および和泉五社との関係が複雑になります。
また神社の密集ぐあいからいって、古代において和泉郡の中心部一帯(和泉府中から信太山周辺)は回りの地域より人口密度が高く、豊かな土地だったと想像されます。
旧和泉国和泉郡。

2018年10月28日、14時18分54秒a
※ 本殿は台風の被害で修理中



<積川神社> 和泉国四之宮
今回の和泉五社巡りのきっかけになった神社。
現在私が住む岸和田市は、岸和田藩そして岸和田城を中心に今の形が形成されましたが、それ以前のこの地域の歴史を知る上で重要な神社です。
岸和田という地名がなかった時代に、今の市域に含まれる各地域がどのような独自性を持っていたのか、市民としてはたいへん興味が湧きます。
旧和泉国南郡(成立時は和泉郡)。

2018年10月03日、13時44分49秒a




<日根神社> 和泉国五之宮
現在の面積が大鳥大社に次いで大きいと思われます。
今の参詣には必要がなくなった参道が鳥居のところから長く伸び、全体として細長い感じになっています。
旧和泉国日根郡。

2018年10月30日、13時32分38秒a




<泉井上神社> 和泉国総社
この神社は和泉監が成立したときに、国府が置かれた中心地(現在の和泉市府中町)に国の総社として建てられたと伝えられています。
現在の神社の面積は小さいですが、入り口の鳥居横には「和泉国総社」の看板が誇らしげに立っています。
旧和泉国和泉郡

2018年11月01日、15時35分43秒a




和泉国とその中の区分である4つの郡について、簡単に説明しておきます。

716年 河内国から和泉郡、日根郡、続いて大鳥郡を分離して、和泉監いずみのげんを作る。
740年 和泉監を廃し、河内国に統合。
757年 再び分離して、和泉国として成立。
13世紀 和泉郡の南側を分離して、南郡を置く。

これによって、和泉国は北から大鳥郡、和泉郡、南郡、日根郡という4つの区分となり、明治初期までの地名表記となりました。
このエリアは堺市の一部を除き、現在泉州(泉北、泉南)と呼ばれる地域と同一です。
なお「和泉」というのは、もともと「泉」だった地名を奈良時代初期の諸国郡郷名著好字令により国名を二字にしたためで、公文書などには「泉郡」などの表記が多く見られるそうです(特に江戸時代)。




和泉五社巡りをしてすばらしいなと感じたことは、この6つの神社は今でも存続して知名度が高く、その地域での存在感をキープしていることです。
多くの神社は、長い歴史の中で農業用水路の開発やそれに伴う人口密集地の変化で氏子の数の増減があり、いわゆる「神社の栄枯盛衰」が起こるのが普通です。
また、だんじり祭りの人気で、歴史はそれほどなくてもメディア露出度の高い岸和田市の岸城神社のような例もあり、神社のタイプはいろいろです。

そんな中、和泉五社および総社は1000年以上の時の流れをくぐってきたと考えると、その境内に入るときは何か荘厳な気持ちを感じざるを得ませんでした。


<おわり>






和泉五社と神輿の渡御 ; その2


和泉五社とは和泉国にある5つの古い神社のことです。
その名を知られている神社が多いです(所在地)。

和泉國一之宮  大鳥大社 (堺市)
和泉國二之宮  泉穴師神社(泉大津市)
和泉國三之宮  聖神社  (和泉市)
和泉國四之宮  積川神社 (岸和田市)
和泉國五之宮  日根神社 (泉佐野市)
和泉國総社   泉井上神社(和泉市)


2019年01月10日、izumigosha_aa
Google地図はこちら


五社と総社を合わせた六つのうち、行ったことのない神社は聖神社と日根神社です。
聖神社は名前も知りませんでした。
あとの神社はだんじり見物などで行ったことがありました。




和泉五社の特徴的なことはその古さです。
前回の内容と重複しますが、716年の和泉監成立時にできたと伝えられる総社である泉井上神社よりも古い可能性が高く、五社がまとまって存在し、一之宮からの序列もはっきりしています。
またこれら五社は現在も存続し、廃絶したところや同一名が存在し特定がしにくくなった神社がありません。
つまり間違いなくこの五つだということです。

神社のことを調べるときに「式内社」という言葉に出くわすのですが、式内社とはここから調べたことの受け売り「延喜式」という養老律令の施行細則をまとめた法典の中にある神社名一覧に載っている神社のことで、歴史があるんだよということを証明するある意味で神社のランクになっているものです。
その延喜式が作られたのが平安時代の927年ですから、和泉五社がそれよりも200年以上も古い奈良時代の716年に存在したであろうことは、際立っているといえます。




ここで学校の勉強で習ったことを思い出してみます。
仏教は、聖武天皇が東大寺を中心に全国に国分寺、国分尼寺を建立したことや、古代や中世において宗教勢力が政治勢力と争ったこと、檀家の一覧が戸籍の役目を果たしたことなどそれなりに詳しく習うのですが、これに比べて神社、神道のことはそれほど教えてもらったことがないなあと気付きました。
太平洋戦争を挟んで、教育内容が大きく変わったのが原因だと思いますが。
あるとすると、6世紀に蘇我氏が台頭する中で仏教を利用し、それと対立した物部氏は日本古来の宗教勢力を代表したが結局敗れてしまったというあたりです。

が、しかし、天皇家しかり、勢力を持った豪族も、先祖は日本古来の神々であると称していますし、仏教に力を注いだ権力者も自分の氏神を祭ってきました。
それらの神社はとても大きく強力で、日本人のアイデンティティーを生み出すような力を維持してきました。
天皇家が完全に神道になる明治以前の1000年以上もの間、このあやふやな関係がずっと続いてきたわけで・・・。

結局のところ、このへんの関係はよくわからないということになります(私には)。
もちろん権力者だけでなく、末端の方に位置する私も、お祭りや正月は神式、葬式やお盆は仏式、それから最近の傾向として自分の子どもの結婚式はキリスト式ということになっています。
そういうのが日本人の大多数だと思います。




和泉監が成立し、総社である泉井上神社が作られたのは奈良時代初期で、聖武天皇が国分寺などを整備する奈良時代中期の少し前です。
その時代にもうすでに存在していたという和泉国エリアの五つの神社。
まさに創世期って感じです。
また、神社が全国に整備された時期は寺院より若干早いのかも知れませんが、そう変わらないことがわかります。

いろいろ考えても、この時代のことはほとんど想像の世界。
さあ!こうなりゃやることは一つ。
実地検分じゃ!


<つづく>






和泉五社と神輿の渡御 ; その1


昨年の話ですが、郷土資料編集の取材で岸和田市内の積川つがわ神社に取材に行きました。
幸い神主さんにお目にかかることができ、この神社に伝わる神輿みこしの渡御とぎょについて、詳しい説明を聞くことができました。
また、倉庫の中に保管してある神輿を見学させてもらうこともできました。


2018年10月03日、14時16分19秒a


郷土資料編集委員会で作っているのは「岸和田の祭り」で、私は主にだんじりについての部分を担当するのですが、その中で市内にはだんじり以外に神輿もあることを紹介することになっています。
だから取材の目的は、神輿の渡御について歴史や現在の運営のようす、参加するメンバーや日程などを聞くことでした。

神輿の歴史は古く、積川神社に伝わる伝承では、720年(養老4年)に和泉国の府中に総社として造られた泉井上神社の完成を祝って、積川神社から神輿が渡御したということです。
これが事実に基づくものであれば、おそらく神輿の歴史の中では全国的にも最古に位置する、またはそれと相当の大きな歴史的な記録ということになります。

神社には神輿が3台あり、上の画像は現在使われているもので、下は1600年前後に淀の方より奉納されたものだそうです。
この文化財として価値が高い方は、数年前に修理をしたとおっしゃっていました。

現在の神輿の渡御は、盛んなだんじり祭りの日程を考慮しながら、祝い事のあるときに行われるとのことです。
市内には神輿を渡御する神社がほかにもう2つあり、そのどちらもだんじり祭りの中の一つの行事といった感じで行われます。


2018年10月03日、14時17分22秒a


積川神社の伝承によると、この神社は和泉国総社である泉井上神社よりも古くから存在していたことになります。
そういえば、この海岸線から10km近く離れている積川神社の鳥居が、6kmぐらい離れたJR阪和線近くに遙拝所として建っています。
その鳥居と今神社が建っている所在地の間には、現在はいくつも神社があります。
そしてこのときのお話では、鳥居は浜の方にもう一つあったが岸和田城建設の際になくなったとのこと。

・・・となると、この積川神社はとても古くて、とても大きな神社だったことがうかがえます。
社域が広いのは、神道組織というか全国の神社の勃興期に存在したからでしょう。
いつできたのかは聞かなかったのでわかりません。

正確にいえばその当時和泉国はありません。
河内国を分割して和泉監いずみのげんという特別な行政区分を作ったのが716年とのことですから、国府となった現在の和泉市府中町あたりに中心的な神社を建立し、その完成を祝って積川神社から神輿が担ぎ出されたということになります。
想像の世界ですが、年代は話が合ってきました。

またそのときに、和泉監の総社としてできた泉井上神社よりも古い神社が5つあり、「和泉五社」と呼ばれることを知りました。
この積川神社はその一つです。

んっ、和泉五社って何?
どんな神社なんだ?


<つづく>






本作りは順調に進んでいます。


5月にスタートした「郷土資料編集委員会」の作業は順調に進んでいます。
予想していた仕事の内容なので、今持っている知識と仕事時代の経験で何とかなりそうです。
計画では、今年度中に本が完成する予定です。


2018年08月10日、13時16分01秒a


今日は編集委員会があったので、午後から岸和田市立図書館に出かけました。
この編集委員会のある日が、その時点までの原稿の締め切りになるので、ここ一週間ほどは何かバタバタしていました。
締め切り近くまで放っておくのは、仕事をしていたころと変わらんな。
改善しよう! 人間、進歩だ。


2018年08月10日、13時37分53秒a


それにしても、このアカデミックな雰囲気…。
昔はこういう場所が嫌いだったんだけどなあ。
というより、子どものころ、もっと勉強しておくべきだった…かな。






奄美の人々は、琉球の人々は


NHKの大河ドラマ「西郷どん」で琉球(奄美大島)を舞台にした回があり、興味をもって見ていました。
二階堂ふみさん、かわいかったですね。

で、ここで思ったこと。
「現在奄美大島に住む人は、自分の先祖をどちらと思って見ていたのだろう。
鹿児島県(ヤマト or 日本)? それとも琉球?」


2018年07月31日、31296598_2225092584175234_1338161030311706624_n_a
※ NHKインスタより

このようなことは、以前に青森を旅行したときも感じました。
坂上田村麻呂を祭った神社に行きましたし、かつて「田村麿賞」というねぶたの賞があったという話を耳にしました。
坂上田村麻呂は、東北の人にとっては外からやってきた征服者ではないのか?

私自身のこととも関係があります。
私の血筋の半分は沖縄ですが、このドラマで琉球の風俗を見たときは完全にヤマト(日本)の感覚で見ていました。
私のような人は、多分多いと思います。




沖縄や琉球の歴史に興味を感じ、いろいろ勉強してわかってくることは、「沖縄は日本ではなかった。」ことと「明治政府は琉球国を廃して、日本の一部にした。」ことの2つです。
そこから感じるのは「沖縄が日本であるのが当たり前のように思っているけど、その歴史的根拠は極めて脆弱。」ということです。


2018年07月31日、Ryukyuan_dialects_map_a
※ ウキペディアより

琉球の歴史では、1429年に中山王尚巴志しょうはしが北山に続いて南山を倒し、三山を統一して琉球王国を建てたことが知られていますが、それ以前のことは資料がたいへん少ないようです。
このときの琉球王国の勢力圏は奄美大島までで、ここまでが琉球の範囲だったといえます。

この内、奄美大島から与論島までの奄美群島は、薩摩藩侵攻によって藩の直轄領とされました。
それがそのまま鹿児島県になっていくので、それらの島々は沖縄本島以南とは違った歴史をたどることになります。
風俗的にはどちらも琉球ですが、制度的に先に日本になったかあとで日本になったかの差です。
大河ドラマでは、この地域の島のようすが描かれていました。




琉球が日本と同じ文化圏だと考えられる根拠の一つに言葉があります。
ここからは調べてわかったことと、その感想ですが。
琉球王朝時代の書類は漢字ととかな文字で書かれていて、薩摩侵攻以前でも表記については日本のかな文化が伝わっていることがわかります。
また、それよりもずっと以前から使われていたはずである話し言葉でも、名詞や動詞など日本語と同じ語源と考えられるようです。
しかし琉球語では母音の数が少なく、発音や活用が違う、もしくは変化しているので、まるで外国語を聞いているような感じになります。
共通のルーツを持ちながらそれぞれ別々に発展したのでしょうか、それとも九州南部からある時期に伝わったものが変化したのでしょうか。
母音が欠落している点は、琉球音階でレとラが欠落している点と似ているなと思いました。

日本語と琉球の言葉を比べると、フランス語とイタリア語の違いぐらいと説明している研究者がいました。
そんなこともあり、琉球の言葉が方言なのか別の言語なのか意見の分かれるところだそうです。
また国語という概念のなかった地域ですから、北東部の島と南西部の島では同じ琉球でも意味が通じないぐらいの違いがあるそうです。
今の沖縄の人の会話を聞くと、同化政策を推進した日本政府の国語教育の執念を見るような気がします。




琉球の言葉を一つ、または複数の言語とみなすと、それはすべて「危機に瀕する言語」の範疇に入るとのことです。
言葉を失うと、その民族のアイデンティティーもおのずと消えていってしまいます。
これを同化というのかもしれませんが、同化が社会の進歩や生活水準の向上を伴った場合、もともとその地に住んでいた住民も、世代が変わるにつれ、やがて自分が征服者の子孫であるような意識に変わっていきます。
そして弱者の方は、歴史的な研究の対象としてしか残らないような、より小さなものになっていきます。

私が琉球のことを考えるときは、正にこの通りかもしれません。
先祖に誇りを持っていると意識したことはありませんが、琉球にはたいへん親しみを持っています。
この感覚、これから変わっていくものなのかな、それともこのままずっと同じなのかな。
多分、私の子どもたちの代になると、もっとトーンが薄まるだろうと思います。






プロフィール

Rip

Author:Rip
性別 男
年齢 戦後生まれ
住所 岸和田市
趣味 バイクほか…
長所 楽しく酒が飲める
短所 判断が自分の好みにかたよる

最新記事
最新コメント
シンプルアーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR