二つの古墳ツーリング(1/19編)


神戸市の五色塚古墳、高槻市の今城塚古墳、二つの古墳をツーリングで巡って来ました。
旅の友はMT-01、そしてTMYくん900RSです。
道順として、まだ二人とも走ったことのない新名神の神戸北JCT-高槻ICを初体験しました。


2020年01月19日、goshikidukaimashiroduka_a
※ クリック精細


まずはじめは五色塚古墳です。
この古墳は教科書に載っていたことがある有名な古墳です。
1960年代から復元工事が行われていたそうで、大規模な工事は日本で最初だということです。

そのころだからできたと思われる思い切った復元で、石積みや空堀のようすがハッキリわかります。
史跡として存在する古墳には堀の水と樹木が付きものなのですが、ここは古墳が建設されたときの姿をそのまま見ることができます。


2020年01月19日、09時53分43秒


この古墳の場所を説明するのは簡単です。
下の画像は海に向かって伸びる前方部ですが、向こうにある島は淡路島で、右側に明石海峡大橋が見えます。
古墳が造られたころはほかに大きな建造物がないので、海峡を通る船からは常にこの古墳がよく見えたことでしょう。


2020年01月19日、10時08分27秒


この古墳の隣には小壺古墳という小さな円墳がありました。


アルバム「五色塚古墳」  ←クリックすれば開きます。





神戸北ICから山陽道に入り、そのまま新名神を走りました。
日曜日のせいか道はガラガラ。
途中の宝塚北SAで昼食を食べました。
最新規格のSAのレイアウト、シャレてますね。


2020年01月19日、13時48分19秒


続いてやってきたのが高槻市の今城塚古墳です。
ここは古墳とその周りのスペースが全部公園になっていて、誰でも入ることができます。
公園としてたいへん広々と立派で、多くの子どもたちや家族連れで賑わいを見せていました。

今日見学した二つの古墳は両方とも前方部や後円部に足で踏み入っていけるわけで、古墳巡りとしては珍しいことだと思います。
誰でも入れるからといって別に放ったらかしにしているのではなく、調査は行われ、隣接する「高槻市立今城塚古代歴史館」にまとめられています。
入場無料、親切ですね。


2020年01月19日、14時05分24秒


この古墳は研究によって継体天皇の墓に間違いないそうですが、宮内庁によると近くにある太田茶臼山古墳(下のアルバムの最後の画像)が継体陵墓として指定されています。
このようなことは、ほかにも一杯ありますね。
そろそろ陵墓を解放して、自由な研究を許可したらいいと思うのですが。

まあ、それをすると、「この陵墓の埋葬者が違っていた」とか「調べた結果、こんな天皇はいなかった」とかいうことが続出し、万世一系説は崩れてしまいますが、そんなことで日本の国体や天皇制がヘンになってしまうことはないと思います。
多くの研究者が王朝の交替を支持している現状の中で、もっと学問的な研究成果を重視する方向が先進国としての正しい姿だと思います。
また政治が安定している今の日本なら、それができると思うのですが。

その王朝交替説によると、継体天皇は現在の皇室につながる初代の天皇です。
そういう意味でも、この今城塚古墳はなかなか重要な古墳です。


アルバム「今城塚古墳」  ←クリックすれば開きます。




今日のツーリングは、高速道路を除くと街中を走るツーリングでした。
TMYくん、そしてこれを読んでくださった皆さま、歴史趣味にお付き合いいただきどうもありがとうございます。






「竈」という地名


先日の賢島ツーリングで南伊勢町内のR260を走っていると、地名としては見慣れぬ漢字を使った道路の看板が随所に現れました。
「棚橋竈」「新桑竈」「栃木竈」、また「小方竈」。


2019年11月30日、竈の地名a
※ クリック大

この「竈」という漢字、何とか読めるような気はするのですが、書けと言われたら絶対に書けません。
「~かま?」というのかな。

漢字のことが載っているWebページがありました。
読み方は「ソウ」「かまど」。
https://kakijun.jp/page/kamado200.html

地形を表す言葉かな? それも漢語が輸入される前から日本にある言葉。
例えば「タワ」とか「ウラ」とか・・・、大和言葉の地形用語とでもいうような言葉なのかな。
「タワ」とは稜線の標高の低いところで、横切る道があれば峠と呼ばれるところです。
「タワ」は漢字がありませんが(未確認)、「ウラ」は海辺、浜のことで「浦」という漢字があります。
この「竈」という言葉もそんなものの一種だろうと思いましたが、確信はなく、記憶に残っていました。



「竈」とは何なのか?
なぜ南伊勢町に竈の付く地名が多いのか?




別のWebページには、この「竈」の付く地名が載っていました。
http://kakijun.com/kanji/chimei/7ac8.html
これを見る限り「かま」と読むこともありそうです。
そして、漢字のWebページのどれを見ても地形を表す意味は見つけられません。

面白くなって調べると、さらに専門的な地名の情報が出てきました。
老いぼれてギター ポロポロ♫ ❣️甚七
しかし、上の二つの疑問の答えはハッキリしませんでした。



ただ「老いぼれて・・・甚七」さんの詳しい資料を精査すると、もう少し想像の範囲が膨らみます。
・ 「竈」という漢字が付く地名は全国にある。
・ 注目すべきは塩竈市(宮城県)など「塩竃」の表記。
・ 地名が密集しているのは栃木県、そして三重県の南伊勢町。

台所に竈があるのは地名ができるよりももっと後の時代ですから、この場合の竈は塩竃のことのようです。
古代において、人間にとって不可欠な塩を大量に得るために、海水を沸騰させる塩竃が発達したそうです。
だから、この「竈」が付く地名は、塩竈があった場所を示していると思われます。

ただ炭竈というところもあります。
栃木県のような内陸部ではやがて登り窯に発展していくような竈が存在し、塩を取る以外の目的でも竈が利用されていたのではと考えられます。
栃木県といえば古代豪族である「毛」の勢力圏です。
回りの地域に比べて当然何かの先進性があり、それがこの「竈」の付く地名の多さにつながったのではないでしょうか。



そのへんは想像の域を出ませんが、この南伊勢町に関しては塩竃があり、それがもとで人口の密集が起こって地名になったということは間違いないと思います。
でも周辺は人口の多い地域からは離れているので、できた塩は流通して売っていたのかな?

町役場で聞いたらわかるかもしれません。
何か、もう一度このへんに行きたくなってきました。






行ってみたい島


行ってみたい島があります。
その名は「舳倉島へぐらじま」。
昨年、能登半島に行った際、この島の存在を知りました。
「へ~日本海にポツンとある島、国内でもまだ知らないところがたくさんあるんだなあ。」と思いました。


2019年11月20日、hegurajima_aa
※ クリック大


舳倉島は能登半島の北50kmの日本海に浮かぶ島で、周囲約5km、面積0.55㎢、最大標高12.4mの小さな島です。
北側は崖や岩礁が多く、南側はなだらかで漁港や砂浜があります(ウィキより要約)。
島の回りが浅い海でよい漁場となっているため、漁業が盛んで約100名の人がこの島に住所を置いています。
しかし実際には輪島市に住み、季節に合わせて漁業にやってくる人が多いそうです。
その中に、7月から9月にかけての三ヶ月だけアワビやサザエを求めて海女漁ににやってくる人たちがいます。
それでこの島は「海女の島」として有名だそうです。



地図で見ていると、この島は吹けば飛ぶような小さな島で、大波が来れば島がなくなってしまうんじゃないかと思うぐらいです。
こんなところで人の営みが活発に行われているとは、人ってバイタリティーあるなあ。
どんな毎日なんだろう。
島の回りの景色は全方向同じだろうな。
海と水平線と空だけ。

もし仮に、外国の軍隊がやってきたら5分で占領されるでしょうね。
自衛隊がいるから大丈夫、そんなことを強く意識させる島です。



幸い、輪島港から毎日船が出ています。
民宿があるそうだから簡単な観光ができそうですが、島を回るのにそんなに時間がかからないでしょう。
とにかく面白そうだし、もし行けたら死ぬまで記憶に残る島になると思います。






和泉五社と神輿の渡御 ; その3


その2で、神道と仏教の関係みたいなことを書きましたが、神社を巡るだけでそんな深遠なテーマに迫れるはずもありません。
訪問した各神社の画像を一枚ずつアップします。
これは、まあ、いつもの物見遊山的なツーリングです。

でも、派生して思い付いたことはいくつかありました。
が、それもできるだけあっさりと書くことにします(目標とします)。



<大鳥大社> 和泉国一之宮
一之宮というだけあって、この神社の境内は他の神社と比べて圧倒的に広いです。
街中にありますが、この広さをよく維持できたものだと思います。
祭神は日本武尊とこの地の神様である大鳥連祖神。
旧和泉国大鳥郡。

2018年10月29日、13時38分00秒a




<泉穴師神社> 和泉国二之宮
神社の周りは宅地化が進んでいて、家が神社の敷地に迫っている感じです。
住宅を挟んで、だいぶん先にもとの鳥居がありました。
旧和泉国和泉郡。

2018年11月01日、14時48分43秒a




<聖神社> 和泉国三之宮
この神社だけが平地にあるほかの神社と違って、丘陵地のはじまる小高い部分にあります。
ここには小さなキツネの石像がありました。
キツネの伝説で有名な信太森神社はもっと海岸線側にあり、その創建が708年とたいへん古いので、聖神社、および和泉五社との関係が複雑になります。
また神社の密集ぐあいからいって、古代において和泉郡の中心部一帯(和泉府中から信太山周辺)は回りの地域より人口密度が高く、豊かな土地だったと想像されます。
旧和泉国和泉郡。

2018年10月28日、14時18分54秒a
※ 本殿は台風の被害で修理中



<積川神社> 和泉国四之宮
今回の和泉五社巡りのきっかけになった神社。
現在私が住む岸和田市は、岸和田藩そして岸和田城を中心に今の形が形成されましたが、それ以前のこの地域の歴史を知る上で重要な神社です。
岸和田という地名がなかった時代に、今の市域に含まれる各地域がどのような独自性を持っていたのか、市民としてはたいへん興味が湧きます。
旧和泉国南郡(成立時は和泉郡)。

2018年10月03日、13時44分49秒a




<日根神社> 和泉国五之宮
現在の面積が大鳥大社に次いで大きいと思われます。
今の参詣には必要がなくなった参道が鳥居のところから長く伸び、全体として細長い感じになっています。
旧和泉国日根郡。

2018年10月30日、13時32分38秒a




<泉井上神社> 和泉国総社
この神社は和泉監が成立したときに、国府が置かれた中心地(現在の和泉市府中町)に国の総社として建てられたと伝えられています。
現在の神社の面積は小さいですが、入り口の鳥居横には「和泉国総社」の看板が誇らしげに立っています。
旧和泉国和泉郡

2018年11月01日、15時35分43秒a




和泉国とその中の区分である4つの郡について、簡単に説明しておきます。

716年 河内国から和泉郡、日根郡、続いて大鳥郡を分離して、和泉監いずみのげんを作る。
740年 和泉監を廃し、河内国に統合。
757年 再び分離して、和泉国として成立。
13世紀 和泉郡の南側を分離して、南郡を置く。

これによって、和泉国は北から大鳥郡、和泉郡、南郡、日根郡という4つの区分となり、明治初期までの地名表記となりました。
このエリアは堺市の一部を除き、現在泉州(泉北、泉南)と呼ばれる地域と同一です。
なお「和泉」というのは、もともと「泉」だった地名を奈良時代初期の諸国郡郷名著好字令により国名を二字にしたためで、公文書などには「泉郡」などの表記が多く見られるそうです(特に江戸時代)。




和泉五社巡りをしてすばらしいなと感じたことは、この6つの神社は今でも存続して知名度が高く、その地域での存在感をキープしていることです。
多くの神社は、長い歴史の中で農業用水路の開発やそれに伴う人口密集地の変化で氏子の数の増減があり、いわゆる「神社の栄枯盛衰」が起こるのが普通です。
また、だんじり祭りの人気で、歴史はそれほどなくてもメディア露出度の高い岸和田市の岸城神社のような例もあり、神社のタイプはいろいろです。

そんな中、和泉五社および総社は1000年以上の時の流れをくぐってきたと考えると、その境内に入るときは何か荘厳な気持ちを感じざるを得ませんでした。


<おわり>






和泉五社と神輿の渡御 ; その2


和泉五社とは和泉国にある5つの古い神社のことです。
その名を知られている神社が多いです(所在地)。

和泉國一之宮  大鳥大社 (堺市)
和泉國二之宮  泉穴師神社(泉大津市)
和泉國三之宮  聖神社  (和泉市)
和泉國四之宮  積川神社 (岸和田市)
和泉國五之宮  日根神社 (泉佐野市)
和泉國総社   泉井上神社(和泉市)


2019年01月10日、izumigosha_aa
Google地図はこちら


五社と総社を合わせた六つのうち、行ったことのない神社は聖神社と日根神社です。
聖神社は名前も知りませんでした。
あとの神社はだんじり見物などで行ったことがありました。




和泉五社の特徴的なことはその古さです。
前回の内容と重複しますが、716年の和泉監成立時にできたと伝えられる総社である泉井上神社よりも古い可能性が高く、五社がまとまって存在し、一之宮からの序列もはっきりしています。
またこれら五社は現在も存続し、廃絶したところや同一名が存在し特定がしにくくなった神社がありません。
つまり間違いなくこの五つだということです。

神社のことを調べるときに「式内社」という言葉に出くわすのですが、式内社とはここから調べたことの受け売り「延喜式」という養老律令の施行細則をまとめた法典の中にある神社名一覧に載っている神社のことで、歴史があるんだよということを証明するある意味で神社のランクになっているものです。
その延喜式が作られたのが平安時代の927年ですから、和泉五社がそれよりも200年以上も古い奈良時代の716年に存在したであろうことは、際立っているといえます。




ここで学校の勉強で習ったことを思い出してみます。
仏教は、聖武天皇が東大寺を中心に全国に国分寺、国分尼寺を建立したことや、古代や中世において宗教勢力が政治勢力と争ったこと、檀家の一覧が戸籍の役目を果たしたことなどそれなりに詳しく習うのですが、これに比べて神社、神道のことはそれほど教えてもらったことがないなあと気付きました。
太平洋戦争を挟んで、教育内容が大きく変わったのが原因だと思いますが。
あるとすると、6世紀に蘇我氏が台頭する中で仏教を利用し、それと対立した物部氏は日本古来の宗教勢力を代表したが結局敗れてしまったというあたりです。

が、しかし、天皇家しかり、勢力を持った豪族も、先祖は日本古来の神々であると称していますし、仏教に力を注いだ権力者も自分の氏神を祭ってきました。
それらの神社はとても大きく強力で、日本人のアイデンティティーを生み出すような力を維持してきました。
天皇家が完全に神道になる明治以前の1000年以上もの間、このあやふやな関係がずっと続いてきたわけで・・・。

結局のところ、このへんの関係はよくわからないということになります(私には)。
もちろん権力者だけでなく、末端の方に位置する私も、お祭りや正月は神式、葬式やお盆は仏式、それから最近の傾向として自分の子どもの結婚式はキリスト式ということになっています。
そういうのが日本人の大多数だと思います。




和泉監が成立し、総社である泉井上神社が作られたのは奈良時代初期で、聖武天皇が国分寺などを整備する奈良時代中期の少し前です。
その時代にもうすでに存在していたという和泉国エリアの五つの神社。
まさに創世期って感じです。
また、神社が全国に整備された時期は寺院より若干早いのかも知れませんが、そう変わらないことがわかります。

いろいろ考えても、この時代のことはほとんど想像の世界。
さあ!こうなりゃやることは一つ。
実地検分じゃ!


<つづく>






プロフィール

Rip

Author:Rip
性別 男
年齢 戦後生まれ
住所 岸和田市
趣味 バイクほか…
長所 楽しく酒が飲める
短所 判断が自分の好みに片よる

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