西国海道の旅⑤ サッカーの町


島原城の天守閣から見える島原商業高校です。
全国高校選手権とインターハイで、どちらも優勝経歴があります。


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1970年代後半から80年代前半までの長崎県の強豪校です。
高校サッカーで有名な小嶺忠敏監督の最初の赴任校です。
となると、次に見たくなる高校は…。


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当然、国見高校ということになります。
国見高校は2005年に市制を敷いた雲仙市にあります。
それまでは、南高来郡国見町でした。


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小嶺忠敏監督は、1984年にこの国見高校に転勤。
奇しくも、この国見町にある多比良サッカースポーツ少年団(小学生)が、全日本少年サッカー大会で全国2位になるのも1984年8月のことです。
国見町のサッカーが花を咲かせ始めた時代です。


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ホントのことを言えば、多比良が国見町にあるのは、今回の旅行で初めて知りました。
多比良サッカースポーツ少年団は、確か単独チーム(市町村選抜などではない)だったと思います。
一度、「キックオフ」という少年サッカーの雑誌で、取り上げられていたことがありました。
多比良小学校が国見高校の目と鼻の先にあるので、多分そこの先生と子どもたちの手作りチームだったのでしょう。
地方の小さな小学校の好成績、みんなの手本ですね。


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国見高校に行ってからの小嶺監督の活躍は、どなたでも少しは耳にしたことがあるでしょう。
長崎県サッカー協会の人以外は誰も知らなかった「国見高校サッカー部」は、それから数年の後に、日本で最も有名な高校サッカー部になりました。


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が、高校の中のようすは至って普通です。
サッカー部の部室も特に立派というわけでもありません。
ちなみに隣は野球部で、このほか陸上部やテニス部、2階部分は女子のクラブが並んでいます。


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この日は、全国高校選手権の敗退の3日後ぐらい。
小嶺監督が去ってからは、県代表にはなっても全国での活躍は少なくなっています。
冬休みのないサッカー部だったのに、少し寂しいですね。


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どこの高校にもめったにないものを見つけました。
こういうものを掲げられる高校は、そうたくさんはありません。
さらに立派なものもありました。


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高校の近くのケーキ屋では、「サッカースフレ」が売られていました。
国道には、サッカーボールをした街灯が並んでいます。
特産のワタリガニである「たいらガネ」の甲羅にも、サッカーボールの模様が…。


西国海道の旅④ キリスト教の景色


天草下島にある大江天主堂です。
明治25年に着任したフランス人のガルニエ神父が、私財を投じて昭和8年に完成させた聖堂です。


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バテレン追放令が出された1587年の時点で、天草の3万の人口の約2/3がキリスト教だったといわれています。
その後の弾圧で、その数は極微(表向きにはゼロ)になると思われますが、明治の宗教自由化のあとのこの地域のキリスト教発展を見ると、その下地は残っていたことが分かります。


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キリシタン大名の小西行長が肥後宇土城主になりこの地を支配するのが、バテレン追放令が出された1587年。
キリシタン大名というのは、相当のジレンマの中で格闘していたのでしょうか?


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でも海外貿易に長けて、大きな利益を上げてくれる九州の戦国大名です。
マニラやマカオなどでは、カトリックのスペインやポルトガルと相当接触していたはずです。
豊臣政権にとって、キリスト教追放はたいへん徹底しにくい政策だったと思われます。
目のつぶり合いというか…。


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隠れキリシタンを始め、天草のキリスト教の資料を集めた「天草ロザリオ館」です。
時間が遅れて、中を見学することができませんでした。

次は、天草(益田)四郎の生まれ故郷のある大矢野島です。
天草上島と大矢野島の間には、美しい天草五橋のうち4つの橋を通ります。
なお一号橋は、大矢野島と九州本土の宇土半島間です。


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上の画像は「天草四郎メモリアルホール」。
宗教色はなく、島原・天草の乱に関する一般的な歴史資料館です。
建屋、内容とも優れていて、歴史好きの子どもから大人までを十分満足させてくれる内容です。
ただし中は撮影禁止。

最後に、下の画像は島原半島の原城址に造られた天草四郎像。
天草四郎が小西行長の孫という説があるらしい。
が、これは史実ではなく、人々の願いに近いもの。


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世界史的に見れば、キリスト教の海外普及は植民地獲得の初歩であり、イエズス会などはヨーロッパ型価値観の押しつけです。
また、彼らがそれを「文明化」と呼ぶことも、アジア人としていい気はしません。
だが天草に来れば、キリスト教は弾圧されたもの、少数派におとしめられたものという印象が強く、何となく哀愁があります。
江戸幕府の鎖国令という法律は、日本人のアイデンティティーを守ったのでしょうか。


西国海道の旅③ ツル観察センター


鹿児島県北西の端にある出水市は、ツルの飛来地として有名です。
でも今は、鳥インフルエンザの地として気の毒な騒ぎになってしまいました。


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ツル観察センターは特定のクローズドされたエリアではなく、田んぼがあって、ツルのたくさんいるところのことです。
インフルエンザ騒ぎで立ち入り禁止の看板がありましたが、誰もが平気で入って行ってツルを見ています。


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ツルを発見!
農道なので、クルマを停めて乗ったまま観察することができます。

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たくさんいます。
色の濃いのがナベヅル、灰色で目の周りが赤いのがマナヅルです。
よく見えないので、ここでカメラにレンズを装着。


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カメラとは携帯電話で、レンズとは双眼鏡です。
引っ付けて撮ると、こんなふうに写りました。
…が、ずれるので何とも写しにくい。


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目の周りの赤いマナヅルはなかなかきれいなツルです。

手軽に、こんなにたくさんのツルを見ることができるとは思っていませんでした。
自然保護など仰々しいうたい文句がなく、自然体な姿でツルと向き合っているこの土地の人たちに共感を感じました。
テキトーな付き合いっていいですね。




西国海道の旅② 3つの城


天草、島原には、江戸時代の反乱に関わる3つの城があります。
島原半島にある島原城と原城、そして天草下島にある富岡城です。


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旅の行程の順ではなく、時代順で見ていきます。
ただし、詳しい年代などは略。


【島原城】
島原・天草の乱の責で、大名で唯一斬首に処せられたと言われる松倉氏の築城による城です。
松倉氏の不人気とも重なり、装飾のない愛想のない姿の城と呼ばれています。


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なお現在の天守閣は、鉄筋コンクリート製です。
天守閣から雲仙岳方面を見ると、島原市街を土石流から守った眉山が手前に見えます。


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半島南部で蜂起した反乱軍は、島原藩の討伐軍を打ち破ったあとこの城を包囲。
しかし、藩側が立てこもったこの堅牢な城を落とすことはできませんでした。
下は、北側の国見町方面のようすです。


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【富岡城】
数日後、島原の動きに合わせて、天草上島で反乱が勃発。
かつては武士だった上級農民層が圧政を引く新領主に不満を抱き、地下活動を行っていたので連動性がありました。


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反乱の指導者層は、自分たちの階層の中から益田四郎をシンボルとして掲げ、天草上島の上津浦から快進撃を続けて、唐津藩の天草での本拠である富岡城を包囲します。


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しかし、ここでも島原城同様、堅固な城を落とすことができず、ここから反乱軍は守勢に回ることになります。
やはり堅牢な城郭は、この時代に政治を行う上で大切な要素です。


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富岡城は、海に浮かぶ小島が砂州でつながった平山城です。
内堀の役目をする袋池があり、陸からはほとんど攻めることができません。


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本丸櫓が復元され、「富岡ビジターセンター」となっています。
時間が遅かったので行けませんでした。
下の説明は、クリックすると大きくなります。


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【原城】
島原の乱の最後の激戦地である原城です。
早い時期に城機能がなくなったので耕地化し、畑の中にある、といった感じもあります。


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二の丸、三の丸は土作りで、本丸とは独立した別々の砦になっています。
畑となり宅地化されなかったので、返ってもとの地形がよく分かります。


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本丸には石垣があります。
建物は何もなく、城址だけです。


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島原城を攻撃し、武器や弾薬を奪った反乱軍が、廃城になっていたこの城を占拠。
これに富岡城攻略に失敗した天草の反乱軍が海を渡って合流し、3万7千人が立てこもったといわれています。
乱の勃発から終結までに4ヶ月ぐらいを要していることから、その期間の大半はこの城での籠城戦となります。


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各藩からの寄せ集めで、統率の取れない第一次討伐隊の失敗から、幕府は12万の第二次討伐隊を編成。
兵糧が尽きるのを待って、総攻撃を行います。
上の画像は、大殺戮の行われた本丸跡です。
それを知っているのは、今ここにあるものでは、城塁の石ぐらいですか…。


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海辺にある平山城で、乱発祥の地である有馬の町が見えます。
今から370年前、籠城するこの城からどんな景色が見えたのでしょう。


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乱の平定後、幕府はこの城を徹底的に破壊します。
再び反乱に使用されないように、というよりは、乱の象徴を消滅させたことを示すための示威行為と考えられます。


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この原城址は1938年に国指定史跡になり、1992年からは発掘調査が続けられているそうです。

島原・天草の乱は、徳川幕藩体制に不満を持つ旧勢力の元武士である上級農民層が中心になっています。
新支配者は転封によってこの地にやって来た官僚型殿様。
特に松倉重政、勝家父子は、さらなる出世型転封をめざしていたのではないかと思わせる節があります。
藩の規模を顧みず無理をしたことが、反乱を引き起こす重税徴収に結びつきました。
キリスト教が介在することも特徴的ですが、むしろ日本の歴史における「中世が終わった」ことを告げる象徴的なできごとだったと感じます。

今回の西国海道の旅では、歴史上最も有名な訪問地がこの原城址でした。


西国海道の旅① 2つのフェリー


地図を見ていて気づいたこと。
「鹿児島県と長崎県は意外と近い?」


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九州の西側は、長崎市以外、今までに行ったことのないところです。
有明海、島原湾、八代海があり、天草諸島があります。
よく見ると…。

鹿児島県の長島は阿久根市と海峡橋でつながっている。
熊本県西端の天草下島から天草上島、大矢野島も橋で九州本土とつながっていて、熊本市へ直接クルマで行き来できる。
天草下島から島原半島に渡れば、そこはもう長崎県。
海上の県境だけが橋の架かっていない30分程度のフェリー航路。

東シナ海の雄大な景色と八代海や有明海の静かな風景。
船を乗り継ぐ、西国海の道縦断の旅へGoです。




まずは三和商船フェリーです。
海峡橋によって九州本土と事実上陸続きになっている鹿児島県の長島と、熊本県天草下島を結びます。
長島から見える天草下島です。


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長島の蔵之元港は、ホントに小さな漁港です。
フェリーがやってきました。


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さようなら、鹿児島県。
長島の島影の向こうには、広大な東シナ海が広がっています。


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あっという間に牛深港に到着、波一つない穏やかな海の旅でした。




次は、翌日に乗った島鉄フェリーです。
天草下島の鬼池港から島原半島の口之津港に渡ります。


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やはり、波のない穏やかな海。
でも天気が悪く、海の色がどんよりなのが残念です。


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普賢岳や平成新山もほとんど見えません。
でも前日に、天草で島原の乱の勉強をだいぶんしてきたので、戦いの主戦場である島原半島に上陸することは、何となくワクワクします。


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海道縦断です。
長崎県の島原半島上陸、あとは陸続きで北九州新門司港まで行けます。


プロフィール

Rip

Author:Rip
性別 男
年齢 戦後生まれ
住所 岸和田市
趣味 バイクほか…
長所 楽しく酒が飲める
短所 判断が自分の好みにかたよる

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